変身
変身 / 東野圭吾
今まで読んだことのある東野圭吾小説は「犯人のいない殺人の夜」「秘密」「新参者」「聖女の救済」。
そのなかでも、「秘密」は本当に大好きで、1ヶ月引きずるくらい感動というか衝撃を受けて、私の中ではこれぞ東野圭吾!(たった4冊しか読んでないけど)っていう小説。
ガリレオシリーズ、東野圭吾シリーズのドラマも見ていて、なんだか最後にやるせなさというか切ない気持ちが残るところが私の思う東野圭吾の魅力だった。
だから新参者はあまり好きではない。
東野圭吾を好き!と言えるようにとにかく読んでみようと思って、オススメ度の高い、映画・ドラマ化もされている有名な変身を今回読んでみた。
そして、私の求めていた切なさはそこにはなかった。ここで東野圭吾好きを豪語していた自分を恥じていたのであった…。(完)
じゃなくて。
本の感想は、おもしろかった。
しかしハッピーエンドだったように思えて、少し驚いたし、ハッピーエンドが苦手な私としては今まで楽しんでいた「切ねぇ~!」を
味わえなかったのは少し残念だった。
「人間の死の定義とは」
「自分が自分である証拠とは」
どちらも私がとても興味がある内容。
まず看護師という立場上、人の死にはよく合うし、私自身専門学校に入るときのレポートのテーマが「脳死について」だった。ドナーの記憶が移植された人に受け継がれるのはよくある(ネタにされる?)はなし。死とはなにか、なにを「死」と定義するか、もはや哲学的な宗教的な思想になって、考えていくと不眠症になりそうなテーマ。
逆になにを「生きている」と仮定するかも同じだと思った。今回は心臓が止まって脳片だけになっても、別の人間の脳のなかで、その一部になるわけでなく、脳片として、その脳片の持ち主としての思考や嗜好、感情が移植された人に表れた。それを「脳片になっても死んでいない」と表した。
そうすると、その「脳片」が本来の持ち主の影響を受けず、そのなかにあるただの電気信号を使って、脳の一部としてそこにあったら、それは「動いている」だけで「生きている」ことにはならない、ということ??
だったら、感情や思考があってこそ人間は「生きている」と言えるということで、逆に脳疾患や認知症でそれを失っているひとは「動いている」けど「生きている」ことにはならない?
ああ、朝になる。
「自分が自分である証拠とは」
ここ1~2年、私について考えることが多くあった。私が私であると言えるのはなぜか。ある心境の変化があって、アイデンティの喪失をしたと思っていたけど、私は私だった。じゃあその私ってなんだ?
RADWIMPSのソクラティックラブ
サカナクションのアイデンティティ
RADWIMPSのサイデンティティ
私が好きなアーティストも、歌ってる。
だれもが生きていれば陥る「私らしいってなに?」のループ
自分のなかに「私」と思える「私」があって、他人のなかにも「私」がいて。きっとどれも「私」。そうやって納得して生きていく。
しかし、今回みたいにどんどん「私」が「私」じゃなくなるなんて、そんな恐ろしいことない。積み上げてきたものがなくなっていく、いままでのことがすべて無駄になったように思う、自分にはなにもない、なにも残らない、自分も残らない、、
無意識の世界に行ったジュン(主人公)は、幸せだったのだろうか。
無意識の世界は、なにも考えなくていいのではないだろうか。無意識という言葉をそういう意味で私たちは使っている。
感情も思考もない、無意識。
それは、「生きている」?「動いている」?
ああ、朝になる。
1.29.追記。
芸能人やアーティストに対する『顔ファンお断り』って言葉がある。有名な人間は『顔』だけでファンがつくし、そのひとだと認識される。
私もジャニーズが好きだ!大好きだ!(なんの台詞だっけこれ)
私の思っている『彼』と、本当の『彼』が全く違っても、その顔さえあれば私にとっての『彼』はそれで十分だったりする。その顔でさえあれば、それは私の中では紛れもなく『彼』だと認識される。
…と思っただけ。